ナダル2013年全仏優勝後のEl Pais(6月10日付)のインタビュー。
ナダルニュースのGennyさんの英訳から和訳させていただきました。
例によって英語力の限界から誤訳、読み違い、よく分からずてきとうに訳してあるところもありますのでご容赦ください。。。
SFのジョコビッチ戦の時のように、対戦相手に限界まで追い詰められるのはどんな気分ですか?
僕が感じる唯一のことは、もう少し我慢しなくちゃならないということ。それが唯一感じることだ。「もう少し抵抗しよう。どれぐらい長く相手が抵抗できるかは分からない。すごく苦しいけど、相手だって限界かもしれない。もう少し追い詰めてみて、勝てるかどうか見てみよう」。この追加の努力はいつでも価値がある。勝っても負けてもね。ロッカールームに戻った時の個人的な満足感の問題なんだ。何物にも代えがたいよ。説明するのが難しい感情だ。
あなたは負けることを拒みますが・・・
僕は負けることを拒むんじゃない。拒んでるのはタオルを投げること。諦めるのを拒むんだ。そのことが、すべてが終わった時に僕を幸せにしてくれる。できることは全てやったと分かってるから。それで負けたら、負けたってことだ。
あなたは時々、苦しみが友達であるかのように話しますね。ジョコビッチと同じように・・・
彼はすばらしい闘士で、すばらしい苦悶者だと思うよ。
でもほとんどの人は、必然的に、苦しみはできるだけ少ないほうがいいと思っていますよね。この違いはどこから来るのでしょう?
やっていることへのモチベーション、やっていることへの情熱から。情熱をもってやっていることのすべてを生きていることから。そこへ至るのに払わなければならないすべての代償から。それが僕をあきらめたくないと思わせる。そこへ辿りつくための代償が何であるか知っているから。それは肉体的な苦痛、精神的な苦痛だ。本当に・・・でも、とにかくローランギャロスのセンターコートでプレーしてるんだ。子供の頃の夢、特別だと分かっている試合を生きている。とても重要なものだから、何が起こったとしても、その年最高の試合の一つになると分かってる。苦痛かって?もちろん。でもそれは贈り物であり、その瞬間にそこにいられる喜びでもあるんだ。
以前、競う力があると感じるためには、トレーニングや試合を多くこなす必要がありましたね。今年、たった8大会でプレーした後でローランギャロスを制覇したことは、もはやそれは必要ないということを示しています。この結果はあなたの技術の質がメンタルやフィジカルの強さを上回ったことを示唆していますか?
それはキャリアにおける必然的な進化だ。年をとれば、より自動的になることが増える。ゲームはより落ち着いて、実際、あまり準備も必要ない。正直なところ、価値としては、精神的、肉体的強さがあるのがすばらしいのは明らかだし、相手を納得させるにはそういう考えは有用だと思う。精神的にも肉体的にも、僕はずっとタフな選手だったと思うし、いつでも自分を越えようとしてきた。闘志と決してあきらめない姿勢に加えて、向上するためのモチベーションといった価値は、とても重要な精神的な能力だ。でも、他の何がなくても、僕が成し遂げたことに至ることはできなかっただろう。たとえば、すばらしいフォア、すばらしいバックハンド、それにボールのコントロールのよさ。僕たちは他のことを強調するあまり、こういうものに光を当てることを忘れてしまうことがある。
ラケットがなかったら勝てませんしね。
精神的、肉体的強さは試合のどんな時でも助けになる。でも、全体で見れば、テニスで勝つんであって心で勝つんじゃない。この間のジョコビッチとのSFみたいに心で試合に勝つこともあるけど、心で勝つためには、限界の状況まで行かなくちゃならない。そして、限界の状況までは、テニスで行くしかないんだ。いろいろなことが混じり合ってるんだ。僕が到達したところへ到達させてくれたのはテニスだ。そして精神的な強さは、それがなければ成し遂げられなかっただろう追加的なものを成し遂げさせてくれた。
あなたの技術が評価されていないのは、美的価値観の問題?フェデラーのような片手バックハンドを持っていないから?
もし僕の対戦相手に訊けば、僕は、テニスについて言えば、特別なものを持っていると言ってくれるだろう。精神的な強さはいつも強調されるかもしれない。僕は長い試合を戦ってきたからね。5時間とか。劣勢から巻き返して最後まで5分5分、そういうタイプの試合は最も記憶に残る。もちろん、僕のプレイスタイル、戦い、あきらめないスタイルはこのタイプの試合には有利で、僕のキャリアに欠かすことはできない。フェデラーは、彼のゲームの性質で、3ショットで決まることさえ多くて、キャリアの中でもそんなに長い試合はなかった。技術的には、彼が僕より上なのは間違いない。でももちろん、僕だって他のほとんどの人たちより上だ。そうでなかったら、ここに来ることはできなかっただろうから。
「目標のないスポーツなんてばかげてる」と言いましたね。
それは、僕がいつも考えてることだし、そういう風に生きてきた。僕たちは現実的にならなくちゃならない。目標もなしにテニスをする・・・いいよ。ネットを越えるようにラケットでボールを打つ。でもそれにどんな意味が?ほとんどない。それ自体がばかげてるよ。最大限のところまでやらなれば、スポーツなんて全部ばかげてる。最大限というのは、目標を、情熱を、モチベーションをもってプレーすることだ。それが、僕が人生でずっと考えてきたことだ。ゴルフをする時も、最善を尽くそうとしてる。間違って取られることもあるよ。「彼が好きなのは勝つことだ」って。僕が愛しているのは、競うこと、努力、最善を尽くそうと集中することだ。もちろん、勝つのは好きだよ。でも僕を本当に満足させてくれるのは、自分ができる最高のことをやっていると感じることなんだ。そうでなければ、僕には意味がない。そうでなければ、気晴らしにやることを受け入れて、何か他のことをやる方がいい。
自分の仲間がロッカールームで自分をアイドルのように見るのをどう思う?マドリッドであなたがホレイショ・ゼバロスと話して、彼の幸運を祈ると、彼は歓喜して「法王に祝福してもらった」と言いましたね。
そんなの想像できないな。正直、僕はどんな選手とも親しく感じるんだ。特にスペイン語を話す人たちとはね。関係が簡単だから。彼らが僕のことをそんな風に見てるとは思わない。どうかな。僕は自分を気さくな人間だと思ってるし、みんなそういう風に見てると思うよ。
これで、2012年にケガをして去ったウィンブルドンに(6月24日から)戻るわけですが。
去年はウィンブルドンにはいい気分で入れなかった。ケガをして、(膝に)注射してプレーしたんだ。僕にとっては大切な大会だから、努力しようとした。できなかったけどね。無理をしすぎたんだ。僕がそこでやりたかったことは、限界を超えてた。それが、その後起きようとしていたことに悪い影響を与えたわけではないけど。今年、僕がウィンブルドンに出られたら、そこにいるというだけですばらしいニュースだ。美しい大会だよ。大好きなんだ。きちんと準備して出られなくても、そこにいられるというだけで満足だよ。
頭をすっきりさせてくれる?
僕を満たしてくれる。芝のコートに出てプレーする感覚が好きなんだ。それは違う感覚だよ。僕にとっては、結果がどうでも、いつでも価値があるんだ。いつもより準備ができていない?(初めて前哨戦に出ずにウィンブルドン入りする)。うん、でもいつでも結局は同じことになる。健康な状態で、肉体的にフィットしていれば、メンタルもよくなると思う。そうして、運よくいくつかの試合で勝ち進めたら、メンタルの健康という意味では、前哨戦を戦わないことが結局は肯定的なものになる。あそこでは、全ての試合が難しい。1年で最も不確かな大会だ。ここで優勝したことが、僕におまけの自信をくれて、ウィンブルドンでいいプレーをさせてくれることもあるよ。
2008年のナダルはパリの決勝でフェデラーに4ゲームしか許しませんでした。彼は2013年のナダルより上?
テニスという意味で? そうかもね。いろんな時があるんだ。2008年の僕には、2013年の僕が持っていないものがあったし、2013年の僕には2008年の僕にはなかったものがある。ローランギャロスに限っていえば、2008年はキャリアの中でも最高のプレーをしたかもしれない。でも見なくちゃならないのは全体だ。2008年には、僕は、たぶん成績のおかげで僕が今も居続けている場所にいた。でもこれらは過去のことだ。僕は前を見ている。
休んでいた時期にもらった最高のアドバイスは何でしたか?
休んでいる間、家族がまわりに居てくれてラッキーだった。それがすごく重要なんだ。それにチームが、体調を維持するのに必要なモチベーションとメンタリティをもってトレーニングを続けるのを助けてくれた。僕を信頼し続けてくれる友達やスポンサーもいた。それが重要な自信の源になってるんだ。
あなたは、各選手に行われたドーピングテストの正確な回数を公表するように依頼しましたね。欠場している間、あなたがいないことを分かっている人がいるのは気になりますか?
選手が出て来て「僕のテスト回数は少なすぎる」と言うのは気に入らないんだ。そんな風にしてよく見せるのは簡単だよ。とか、「僕のテストは多すぎる」とかね。僕は「これだけテストされてる」と言ってほしいんだ。何回、ということをね。そうやって公にすれば、疑いを持たせたり、「彼はテストが少ないと言っているからいい人で、もう一人は多すぎると言ってるから悪い」と感じさせなくてすむ。理屈にかなってるのは、すべてを公にすることだ。そうすれば、こういうことに疑問は残らない。いない?どんな時も僕はいなかったことなんかない。僕を見つけたい人は誰でも、どこで見つかるか分かってる。家にいて、毎日トレーニングしてたんだから。
ナダルニュースのGennyさんの英訳から和訳させていただきました。
例によって英語力の限界から誤訳、読み違い、よく分からずてきとうに訳してあるところもありますのでご容赦ください。。。
SFのジョコビッチ戦の時のように、対戦相手に限界まで追い詰められるのはどんな気分ですか?
僕が感じる唯一のことは、もう少し我慢しなくちゃならないということ。それが唯一感じることだ。「もう少し抵抗しよう。どれぐらい長く相手が抵抗できるかは分からない。すごく苦しいけど、相手だって限界かもしれない。もう少し追い詰めてみて、勝てるかどうか見てみよう」。この追加の努力はいつでも価値がある。勝っても負けてもね。ロッカールームに戻った時の個人的な満足感の問題なんだ。何物にも代えがたいよ。説明するのが難しい感情だ。
あなたは負けることを拒みますが・・・
僕は負けることを拒むんじゃない。拒んでるのはタオルを投げること。諦めるのを拒むんだ。そのことが、すべてが終わった時に僕を幸せにしてくれる。できることは全てやったと分かってるから。それで負けたら、負けたってことだ。
あなたは時々、苦しみが友達であるかのように話しますね。ジョコビッチと同じように・・・
彼はすばらしい闘士で、すばらしい苦悶者だと思うよ。
でもほとんどの人は、必然的に、苦しみはできるだけ少ないほうがいいと思っていますよね。この違いはどこから来るのでしょう?
やっていることへのモチベーション、やっていることへの情熱から。情熱をもってやっていることのすべてを生きていることから。そこへ至るのに払わなければならないすべての代償から。それが僕をあきらめたくないと思わせる。そこへ辿りつくための代償が何であるか知っているから。それは肉体的な苦痛、精神的な苦痛だ。本当に・・・でも、とにかくローランギャロスのセンターコートでプレーしてるんだ。子供の頃の夢、特別だと分かっている試合を生きている。とても重要なものだから、何が起こったとしても、その年最高の試合の一つになると分かってる。苦痛かって?もちろん。でもそれは贈り物であり、その瞬間にそこにいられる喜びでもあるんだ。
以前、競う力があると感じるためには、トレーニングや試合を多くこなす必要がありましたね。今年、たった8大会でプレーした後でローランギャロスを制覇したことは、もはやそれは必要ないということを示しています。この結果はあなたの技術の質がメンタルやフィジカルの強さを上回ったことを示唆していますか?
それはキャリアにおける必然的な進化だ。年をとれば、より自動的になることが増える。ゲームはより落ち着いて、実際、あまり準備も必要ない。正直なところ、価値としては、精神的、肉体的強さがあるのがすばらしいのは明らかだし、相手を納得させるにはそういう考えは有用だと思う。精神的にも肉体的にも、僕はずっとタフな選手だったと思うし、いつでも自分を越えようとしてきた。闘志と決してあきらめない姿勢に加えて、向上するためのモチベーションといった価値は、とても重要な精神的な能力だ。でも、他の何がなくても、僕が成し遂げたことに至ることはできなかっただろう。たとえば、すばらしいフォア、すばらしいバックハンド、それにボールのコントロールのよさ。僕たちは他のことを強調するあまり、こういうものに光を当てることを忘れてしまうことがある。
ラケットがなかったら勝てませんしね。
精神的、肉体的強さは試合のどんな時でも助けになる。でも、全体で見れば、テニスで勝つんであって心で勝つんじゃない。この間のジョコビッチとのSFみたいに心で試合に勝つこともあるけど、心で勝つためには、限界の状況まで行かなくちゃならない。そして、限界の状況までは、テニスで行くしかないんだ。いろいろなことが混じり合ってるんだ。僕が到達したところへ到達させてくれたのはテニスだ。そして精神的な強さは、それがなければ成し遂げられなかっただろう追加的なものを成し遂げさせてくれた。
あなたの技術が評価されていないのは、美的価値観の問題?フェデラーのような片手バックハンドを持っていないから?
もし僕の対戦相手に訊けば、僕は、テニスについて言えば、特別なものを持っていると言ってくれるだろう。精神的な強さはいつも強調されるかもしれない。僕は長い試合を戦ってきたからね。5時間とか。劣勢から巻き返して最後まで5分5分、そういうタイプの試合は最も記憶に残る。もちろん、僕のプレイスタイル、戦い、あきらめないスタイルはこのタイプの試合には有利で、僕のキャリアに欠かすことはできない。フェデラーは、彼のゲームの性質で、3ショットで決まることさえ多くて、キャリアの中でもそんなに長い試合はなかった。技術的には、彼が僕より上なのは間違いない。でももちろん、僕だって他のほとんどの人たちより上だ。そうでなかったら、ここに来ることはできなかっただろうから。
「目標のないスポーツなんてばかげてる」と言いましたね。
それは、僕がいつも考えてることだし、そういう風に生きてきた。僕たちは現実的にならなくちゃならない。目標もなしにテニスをする・・・いいよ。ネットを越えるようにラケットでボールを打つ。でもそれにどんな意味が?ほとんどない。それ自体がばかげてるよ。最大限のところまでやらなれば、スポーツなんて全部ばかげてる。最大限というのは、目標を、情熱を、モチベーションをもってプレーすることだ。それが、僕が人生でずっと考えてきたことだ。ゴルフをする時も、最善を尽くそうとしてる。間違って取られることもあるよ。「彼が好きなのは勝つことだ」って。僕が愛しているのは、競うこと、努力、最善を尽くそうと集中することだ。もちろん、勝つのは好きだよ。でも僕を本当に満足させてくれるのは、自分ができる最高のことをやっていると感じることなんだ。そうでなければ、僕には意味がない。そうでなければ、気晴らしにやることを受け入れて、何か他のことをやる方がいい。
自分の仲間がロッカールームで自分をアイドルのように見るのをどう思う?マドリッドであなたがホレイショ・ゼバロスと話して、彼の幸運を祈ると、彼は歓喜して「法王に祝福してもらった」と言いましたね。
そんなの想像できないな。正直、僕はどんな選手とも親しく感じるんだ。特にスペイン語を話す人たちとはね。関係が簡単だから。彼らが僕のことをそんな風に見てるとは思わない。どうかな。僕は自分を気さくな人間だと思ってるし、みんなそういう風に見てると思うよ。
これで、2012年にケガをして去ったウィンブルドンに(6月24日から)戻るわけですが。
去年はウィンブルドンにはいい気分で入れなかった。ケガをして、(膝に)注射してプレーしたんだ。僕にとっては大切な大会だから、努力しようとした。できなかったけどね。無理をしすぎたんだ。僕がそこでやりたかったことは、限界を超えてた。それが、その後起きようとしていたことに悪い影響を与えたわけではないけど。今年、僕がウィンブルドンに出られたら、そこにいるというだけですばらしいニュースだ。美しい大会だよ。大好きなんだ。きちんと準備して出られなくても、そこにいられるというだけで満足だよ。
頭をすっきりさせてくれる?
僕を満たしてくれる。芝のコートに出てプレーする感覚が好きなんだ。それは違う感覚だよ。僕にとっては、結果がどうでも、いつでも価値があるんだ。いつもより準備ができていない?(初めて前哨戦に出ずにウィンブルドン入りする)。うん、でもいつでも結局は同じことになる。健康な状態で、肉体的にフィットしていれば、メンタルもよくなると思う。そうして、運よくいくつかの試合で勝ち進めたら、メンタルの健康という意味では、前哨戦を戦わないことが結局は肯定的なものになる。あそこでは、全ての試合が難しい。1年で最も不確かな大会だ。ここで優勝したことが、僕におまけの自信をくれて、ウィンブルドンでいいプレーをさせてくれることもあるよ。
2008年のナダルはパリの決勝でフェデラーに4ゲームしか許しませんでした。彼は2013年のナダルより上?
テニスという意味で? そうかもね。いろんな時があるんだ。2008年の僕には、2013年の僕が持っていないものがあったし、2013年の僕には2008年の僕にはなかったものがある。ローランギャロスに限っていえば、2008年はキャリアの中でも最高のプレーをしたかもしれない。でも見なくちゃならないのは全体だ。2008年には、僕は、たぶん成績のおかげで僕が今も居続けている場所にいた。でもこれらは過去のことだ。僕は前を見ている。
休んでいた時期にもらった最高のアドバイスは何でしたか?
休んでいる間、家族がまわりに居てくれてラッキーだった。それがすごく重要なんだ。それにチームが、体調を維持するのに必要なモチベーションとメンタリティをもってトレーニングを続けるのを助けてくれた。僕を信頼し続けてくれる友達やスポンサーもいた。それが重要な自信の源になってるんだ。
あなたは、各選手に行われたドーピングテストの正確な回数を公表するように依頼しましたね。欠場している間、あなたがいないことを分かっている人がいるのは気になりますか?
選手が出て来て「僕のテスト回数は少なすぎる」と言うのは気に入らないんだ。そんな風にしてよく見せるのは簡単だよ。とか、「僕のテストは多すぎる」とかね。僕は「これだけテストされてる」と言ってほしいんだ。何回、ということをね。そうやって公にすれば、疑いを持たせたり、「彼はテストが少ないと言っているからいい人で、もう一人は多すぎると言ってるから悪い」と感じさせなくてすむ。理屈にかなってるのは、すべてを公にすることだ。そうすれば、こういうことに疑問は残らない。いない?どんな時も僕はいなかったことなんかない。僕を見つけたい人は誰でも、どこで見つかるか分かってる。家にいて、毎日トレーニングしてたんだから。
ソース:El Pais Gano con mi tenis, no con la mente
なりきりブログありがとうございました(^^)
返信削除やっぱりラファ素敵!なんなんさんの和訳素敵(^o^)
あ、ともみんさん!来てくれてありがとうございます。
削除最近あんまりツイッターでお見かけしないですねー。さみしいです。
またたまになりきることがあるかと思いますので、なまあたたかい目で見守ってくださいませ。