The Big Interview: Rafael Nadal
Sunday Times April 23 2006
8時になってナダルはホテルに戻ってきた。練習で10時間もコートにいても、まだ十分とは感じていない。雨でセカンド・セッションが遅れて彼が中に入っても、ファンは外で傘をさして彼が戻るのを待っている。席を取られてしまうのを恐れているからだ。そんなにしてまで、雨の中マヨルカ出身の若者の練習を見たいのだ。
「暗すぎてもうプレーできなかったんだ」とナダルは言う。使えなかったコートの使用時間に思いを馳せながらソファに身をもたせ、ポテトチップスをできるだけ早く手から口へ運ぶ。コカコーラを「ストローつきで」注文し、渇えたように、あっという間になくなるまで飲んでしまうと、もう一杯注文した。今の彼はティーンエイジャーに見える。さっき8番コートにいたテニス界のロック・スターの4分の1の年齢だ。
「おいしい」。彼は微笑みながら言う。まだ驚くべき速さでポテトチップスをかき込んでいる。「僕は単純なんだ。シンプルなものが好き。ボートで釣りをするのが好き。家族と一緒にいるのが好き。それから・・・」彼は空になったボウルに微笑んだ。「ポテトチップスが好きなんだ」
今、シンプルな場所から来たシンプルなものが好きなシンプルな少年は、途方もない課題にシンプルに取り組んでいる。モンテカルロ・マスターズの決勝でフェデラーと対戦し、タイトルを防衛するのだ。このスイス人選手にドバイで勝った経験は、彼が試合にアプローチするうえで心理的に有利に働いている。しかし、フェデラーを上回るにはまだまだ遠いことも分かっている。「ポイントを見てよ。彼はNo.1だ。これしか言うことはないよ。彼は倒すべき存在なんだ」。彼は、モナコへ来る前にフェデラーに勝った時のビデオを見ていたと認めた。世界一の選手を倒せると知ることで、気分を高めるためだ。
「あの勝利は僕にとってすごく重要なんだ」と彼は言う。「ケガから復帰して2つ目の大会だった。僕は試合を楽しんだ。あの日はすごく冷静にコートに出て、勝ったときはすごく特別な感じがしたよ」。
彼とフェデラーはランキングの1位と2位なので、決勝でしか当たらない。「だから、いつもプレッシャーがいくらか増えるんだ」。
いつも、試合が始まるとすぐに勝つかどうか分かるとナダルは言う。相手に対抗する方法が分かると、彼の言うところの「とても特別な感じ」がする。そして、導かれるのだ。
勝利へ。
ラファエル・ナダルの物語は3人の兄弟から始まる。彼の父、セバスチャンと2人のおじ、トニとミゲル。マヨルカでお互い近くに住んでいる。彼のテニスという冒険は16年前始まった。3歳でサッカーへの興味が芽生えたころ、トニがテニスを教えてくれたのだ。トニは競技テニスの選手で、スペインのナショナルレベルである程度の成功をおさめていた。一方ミゲルはサッカー選手だった。立派な体格のすばらしいディフェンダーで、ここ3回ワールドカップのスペイン代表としてプレーし、今年引退するまで長い成功の履歴を持っていた。
トニは小さな甥に、サッカーの練習と平行して、楽しみのためにテニスをすることを勧めた。しかしすぐに、この少年がラケットを握ると自信満々になるのに気づいた。「サッカーもテニスも続けてたんだけど、少しずつ伯父とテニスをする方が多くなった」とナダルは言う。「でもまだサッカーの方が好きだった。小さいときは、本当にサッカーが好きだったんだ」。
5歳になる頃には、週2回テニスクラブに通うようになった。8歳になって、地元のサッカーチームの有望なストライカーになった頃には、テニスでは12歳以下のグループで地域のチャンピオンになっていた。
「そうしたら、みんながテニスのトップになれるんじゃないかって言い出したんだ」。3歳も年上の子供のための大会で優勝したら、気づかれないわけにはいかなかった。あちこちのクラブから招かれてプレーするようになり、トニはこの小さな弟子にもっと真剣に取り組むようになった。ベースラインから相手を倒せる時でもネットに出るように言い、また右利きにもかかわらず、左手でプレーするように勧めた。「彼は僕がフォアハンドを両手で打つのに気がついて、ある日片手でやってみるように言ったんだ。サッカーでは左足を使ってたから、やってみるべきだと考えたんだね。僕はやってみた。そしたらうまくいったんだ」
あまりにもうまくいった。12歳になる頃には、その年齢のグループの、スペインとヨーロッパのテニス・タイトルを獲り、いつでもテニスをやっているか、サッカーをやっているかだった。すると兄弟の三番目、ラファエルの父セバスチャンが介入してきた。「父はサッカーかテニスかどちらかを選べと言ったんだ。学校の勉強がおざなりにならないようにね」とナダルは言う。「僕はテニスを選んだ。サッカーはすぐにやめなきゃならなかった」。
彼がサッカーを選んでいたら、ステラ・アルトワとウィンブルドンのかわりに、6月のワールドカップに向けて準備をしていたことも十分ありえる。13歳になる頃には、彼は毎日テニスをしていた。9時から正午まで学校に行き、12時から2時まではテニス、昼食を取って、午後は学校。それから夕方もう2時間テニスだ。
14歳のとき、スペインテニス連盟から、マヨルカを出てスペインテニスの中心、バルセロナでトレーニングを受けてはどうかと提案を受けた。しかし両親は彼を手放したがらなかった。「勉強がほったらかしになってたから心配したんだ」とナダルは言う。「伯父たちも両親に賛成した。だから家にいることにしたんだ」
オファーを断るということは、連盟からの経済的援助の減額に同意するということだったが、彼の父親がトレーニングの費用を支払うことを申し出た。トニを含め、ナダルに近い人たちは、家に留まる決心は彼が今のようなプレイヤーになるためには決定的だったと主張する。彼は伯父とトレーニングを続けたが、もっとずっと真剣に取り組むようになった。少なくとも1日2回プレーし、定期的に競技にも参加した。2003年には、ナダルは16歳で世界のトップ50に入った。
「伯父とコーチが一緒なのが、僕にはベストだった。彼はまず僕のおじさんで、それからコーチなんだ。おじさんと一緒に旅ができればその方がいいでしょう。全部の試合に家族が来ることはできないけど、おじさんの中に家族がいるんだ」
私たちが会う一週間前、アンディ・マレーがコーチと別れ、新しいメンターを探し始めていた。「僕は本当にラッキーだって気がついたよ」とナダルはいう。「そんな問題は僕にはない。僕たちはチームなんだ。おじさんと僕と、フィジカル・トレーナー。僕たちは一緒にやってるんだ」
この若者が地に足をつけたままでいられるのは、トニのおかげだろう。彼はナダルに自分でラケットとボールを運ばせるなど、巨大な成功で彼が変わることのないようにしたという話は多くある。
「小さい頃の人生の目標はしあわせでいることだった。今?しあわせでいること。何も変わってないよ。テニスは上手になったけど、それだけさ。僕の中は何も変わってない。僕に会う人はみんな、僕が変わると思うみたいだけど、僕は変わらない。同じだよ。今でも、しあわせでいられればそれ以上のものは望まないよ」
何が19歳の億万長者のテニスの天才をしあわせにするのだろうか?「家族が僕をしあわせにしてくれる。一番の望みは家族がみんな健康でいること。友達がハッピーなこと。僕がテニスをできること」
シンプルな少年のシンプルな望み。「それ以上何がほしいの?」と彼は尋ねる。フェデラーを倒して世界No.1の選手になるのは?「それもいいかもね。しあわせになる役にはたつかも」と、彼は笑いながら言う。
「まじめな話、僕は家族のことを最初に考えるし、家族が僕にとって一番重要なんだ。マナコールでは僕は普通だよ。みんな僕を小さい頃から知ってる。僕が何かで勝てば祝ってくれるけど、他のみんなと同じように扱ってくれるんだ。僕は他の人たちと同じような人生プランを持ってるんだよ」
一番嫌いなのは、負けることと痛み(この順で)だとナダルは言う。「伯父はいつも、このゲームでは負けることが重要だって言うんだ。テニスをやるなら負けることもある。そういうものだって。どの大会でも、すべてのゲームに勝てるのは一人だけだし、すべての大会に勝てる人なんていない。ベスト・プレーヤーでも負けるし、誰でもいつかは負ける。今はそういうレッスンをしてるところなんだ。でも、負けたあとでプレーしに出るときはずっとナーバスになるよ。毎週違う場所で、違う大会がある。負けることもゲームの一部なんだって分かるよ。でも、勝つのは・・・勝つ方がずっといいよね」
ナダルは特にクレー・コートで力を発揮する選手だが、SW19の芝生に最も魅力を感じると言う。「テニスでの夢はウィンブルドンで優勝すること。あの大会ではスペイン勢はうまくやってないし、特別なイベントだからね。どんな選手もあそこで優勝することを夢見るものでしょう?あそこで成功できたらすばらしいだろうね。すごく特別だよ」
インタビューが終わると、ナダルは礼儀正しく立ち上がって握手をし、インタビューの間中テーブルの上で光ったり震えたりしていた携帯電話に手を伸ばした。「さようなら。来てくれてありがとう」と彼は言った。「英語がうまくなくてごめんなさい。英語の4分の1しか話せないんだ。4分の4分の1かもね。うまくないんだ」私は彼に、君の英語は本当に悪くないよと言った。彼はこれからも勉強すると約束した。「次に会うときは、もっとうまくなってるよ」
私が帰りかけたとき、彼は電話に一連の番号を入力していた。「モヤにかけてるんだ」と彼は説明した。「彼はとてもいい友達なんだよ」。このスペインの仲間と2時間後に日本食レストランで食事をする約束を途中までしたのだと彼は言う。「早く食べなくちゃ」と、ポテトチップスのボウルを指す。「すごくお腹すいてるんだ」。いつもフライトを予約する前にモヤに連絡をするのだそうだ。たくさんの人と旅をするのが好きだから。
「いつも友達や家族がまわりにいる方が楽しいでしょう。僕はまわりに人がたくさんいるのが好きなんだ。食べるときも、飛行機でも。いつでも」
やがてナダルの希望や興味が色あせ、ひとつひとつのショットに身を投げ出し、試合が終わるとすぐに伯父と一緒にまっすぐ戻ってくるような熱意に、金や名声や故障がからむ日が来るのかもしれない。しかし今、ナダルは宝物だ。
彼の控えめさ、甘えのなさ、彼の送っている人生の一途な喜びで、彼は私たちの毒を抜いてくれる。成功が何かを変えなければいいと思う。
*追記(2013年6月)
元記事にリンク貼りたかったのですが、Timesが有料になり、探せません。すみません。
↑
記者はAlison Kervinさんだそうです。ふぁらみあさん、ありがとう。
元記事へのリンクもありがとうございます!
Part 1 http://bit.ly/1abxDE3
Part 2 http://bit.ly/10iocRu
再掲ありがとうございます!
返信削除このインタビューと記事とっても好きです。
そしてnannanさん訳のRafaの素朴でかわいいこと♡
昔は(今も?)コーラとポテトチップばっかり^^;
この頃はあの引退危機からの復帰途上で、不安でいっぱいだったんですよね・・・(その辺りを詳しく知ったのは後のことですが)。
最後の言葉がファンの思いと同じで、記者の方にも愛されているんだなぁと嬉しくなりました。
今も変わらないあの姿とともに。
元記事がアップされていた掲示板があったのでそちらをリンクさせて頂きますね。記者はAlison Kervinという方でした。
Part 1 http://bit.ly/1abxDE3
Part 2 http://bit.ly/10iocRu
Part 3 http://bit.ly/11MTG0i
ふぁらみあさん、ありがとうございます!
削除掲示板に残っていたとは・・・。新聞社よりファンの方が頼りになりますね~
私もこの記事は好きで、あちこちブログをお引っ越しする時も残していたのです。今読むと、いろいろ感慨深いです。。。(涙)
記者さんはAlison Kervinというと、女性の方でしょうか。なんだか、訳している時に女性のつもりで訳して、だけど後から男言葉に直した記憶があるのです。なんで直したのだろう。。。(-_-)